光明寺 本堂 光明寺 参道
<沿革>
 光明寺の旧称は桐谷宝積寺と号す。建久年間(1190-1199)退耕行勇和尚の草創に係り、台密、禅兼学の寺で当時七堂伽藍と坊舎が38あったと伝えられる。
 文永年間(1265-1275)に鎌倉建長寺開山大覚禅師留錫以来、禅宗だけを専修する寺に変わったという。嘉元元(1305)年に夢窓国師(夢窓疎石)が宝積寺に留錫、光明院を創立し、安居の地としたという。その後、永禄12(1569)年、北条、武田の三増合戦の際、兵火にかかり、堂塔坊舎を尽く焼失した。天正6(1578)年、俊雙儿和尚の時、津久井領主が、何があっても永存するよう寺中の坊舎を村々に配置し、桐谷宝積寺の称を改め、頭塔光明院を合併し、更に桜野の地に再建し、金徳山光明寺を改称した。当山は夢窓国師を開山とし、永禄の戦禍後寺を再建した俊雙儿和尚を中興開山としている。
 徳川幕府は、文化元(1804)年蝦夷地に新寺建設を、当山の住職文翁政和尚に命じ、禅師は厚岸に国泰寺を創設する。その頃幕府は、当寺を官寺に準ずる寺格と葵紋章を許されたとある。

<建物、寺宝>
 第30世渡辺玄暢代、昭和52年客殿新築
 第32世雅光代、平成9年庫裏新築。

 山門、鐘楼、土蔵。本尊延命地蔵菩薩は運慶の作と伝える。観世音菩薩33体。

 県重文に指定されている十六羅漢図、雪村筆の雲竜図、開山夢窓国師の頂相等

【津久井観音霊場2008より】
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